もうすぐ死んでしまう家を
撮ったフィルムが目の前に5本、二つカメラが
あるから、7本。
村上春樹「アイロンのある風景」みたいな風景。
家族はみんな借家やアパートに
移ってしまったので、
今、一人旧邸に篭城中。
モノが散乱。料理道具がない台所のなんと
切ないことか。ガスのこなくなり、
浸かる者のいない浴槽を構える風呂場の空しさ。
「おお、神よ私を見棄て給うな」とでも
言いたげな。それを郵便配達夫が
言っていたのは聞いた。
部屋の落書きを恥ずかしいから
隠していたものの、その覆いをとって
見てみることにしよう。
ウチのジイさんを、借家に車で
送る時、べつに家と最後の別れっ
ていうわけでもないけど、車に乗り込む際
「さらばだ」と一言残した。
ジイさんは、この家でバアさんと
暮らし、バアさんに先立たれ一人で
来る日も来る日テレビを相手に
過ごしたのだが、彼が持っているであろう
バアさんとの生活の懐かしさとか生気が
記憶された家の柱の傷とかはもうなくなる。
その懐かしさは彼の心の中だけ
で生きることができるのだろうけど、
彼が死んでしまったときに、
その懐かしさは全く消え去ってしまって、
それはそれで終わりということか。
ジイさんからして、それは語られたり、
記録として残されることはないだろうし、
そうであるから、どうなるのかということを
考えるのは杞憂か。
ジイさんと話をしたりしてそこに言葉とかを
共有する経験をすることで、
お互いに拡がる何かがあると思うことは僕が
若年寄でミミドシマってことなんだろうか。
実体があるということとか、同時ということは
どういうことなんだろうと
もうすぐ死を迎えるあばら家で思った。

小沢健二の「ライフ」の
センチメンタリズムが今、心地よくて聴く。
今夜はブギ−バックって
男の子の声で歌った歌謡曲だけど、
実はメアリーJブライジみたいだとも思う。
DE LA SOULとかWARの「仲間たちよ目を覚ませ」
とかそういう黒人の感覚を深く感じて曲を作って
いたんだなあと改めて感慨深く思うのは
こんな時だからかなあとも思う。
今はあのたくさんのシングルを自分でまとめた
ものを聴いている。
最後に「ある光」がはいっていて
それを聴きたいと思う。
「グレイトギャツビー」の最後のページを
読みたいけど、今は借家のダンボールの中で
ここには無い。

付け足しておくこと。
世界貿易センターに突っ込まれるような
くらいのことがないと腰が上がらず、
行動にうつせないような。
もの凄い強度の孤独なセンチメンタリズムは
いつも問題なんだけど、
それで友達とか親から心配されたり
してる気がするってくらいの鈍感さも
ありつつ、適当なことができずに
一人盛り上がって、ぶっとばす、みたいな
ことも思う阿呆で。
でも、そういうのは行動するから、
もうなくなるだろうと思っています。
構築したものの最上階に行動があり、
そこに居つづけることなんだと思い。
飛躍するのに必要な助走だと考え。
’03年の飛躍。それじゃあ、ぶっとばします。

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uri

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